ぼくのらいおん日記

ハートフルでピースフル、それでいて泣けるエントリーがここに。

「でも」「だけど」は自慢のまくら

話をしていると、「でも」や「だけど」を多用する人がかなりの数いる。もちろん、僕自身も相手の話に賛同できない場合や、別の意見をもっている場合について使う言葉なのだが、こういった使い方をしている人が、実はとても少ない。

滅多やたらにこの接続詞を多用する人は、相手の意見を否定するただのウザい奴、的な位置付けで見られることが多かった。何を言っても頭ごなしにすぐ否定。また否定。僕自身も彼らのことを「バカだなぁ」と思っていたし、なんで否定ばかりするのかなとも思っていた。そんなに自説の正当性を主張したいのかとすら思っていた。


しかし、どうやら僕の認識は間違っていたようだ。ここ最近ずっと、「でも」を使う人が、この言葉の後に、どんな言葉を繋げてくるのかをつぶさにチェックしていた。すると、「でも」「だけど」の次に返ってくる言葉は、僕の放つ言葉への否定的な返答でも反論でもなんでもなく、自慢話をし、マウンティングするためだけなのだと気付いた。

「でも、私は〜がすごい/優れているんだけど、お前の話は〜だ」はもはやテンプレであり、「でも」が「でも」として機能していないのも明白だった。仮に反論を補強するために使っているのだとしても、別にあなたの優れた経歴や経験が、後押しするわけでもあるまい。

自慢がしたいだけの人と話すのは酷く退屈であるので、このことがわかって以来、「でも」の後、最初に返ってくる言葉次第では話を聞くのをやめることにした。だって自慢話を聞かされたところで生産性は何もないし、わざわざ相手の自尊心を満たすためだけに使う時間はあまりにも空虚であろう。そして外から見ても、とても、滑稽だ。