ぼくのらいおん日記

ハートフルでピースフル、それでいて泣けるエントリーがここに。

「うまく言葉にできないけれど」

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 僕は新潟発のアイドル「Negicco」さんが大好きであり、なかでもリケジョであるところのKaedeさんが大好きなんだけれども、この大好きという気持ちよりも実際はもっともっと大好きなのである。しかしながら、この大好きよりも上のもっともっと大好きという気持ちは大好きという枠組みを超えた大好きなのであり、この大好きをうまく伝える大好きを、うまく言葉にできない。こんなに、こんなに大好きなのに…。と、あたかも病んでいるかのような書き方をしたけれど、「うまく言葉にできない」という言葉を隠れ蓑にしてはいけない。

 

 例えばある有名な博物館の展覧会が近所で行われるとする。美しいものや流行の最先端に敏感なあなたは、休日を利用してそこへ足を運ぶだろう。そしていくらかお金を払って、展示されている有名な画家の作品へと近づき、まずその中心から全体へ向かって眺め始めるか、あるいは全体から中心へと眺め始めることになる。あなたの隣には皺の刻まれた顔で同じように絵画を眺める老人や、展覧会のガイドブックを持った、まだ皺の無い若い女性がいるかもしれない。

 

 そうしてあなたは次々に、飾られた絵画や彫刻などの芸術作品を鑑賞すると、その展覧会を後にして近所のカフェにでも入り、SNSにこう書き込むはずだ。「すごく良かった」「なんだかうまく言葉にできないけど、とにかくすごかった」。

 

 もしあなたが言葉に触れ始めて20年以上経っているならば、なぜ言葉にできないのかを考えなければならない。私たちはある対象を見たとき、まずその対象がどういった色であるか、あるいはどういった臭いであるか、どういった質感であるか、といった様々な情報を一度に認識し、それぞれについての意味を確認することになる。その過程の中で、どういった〜であるか、という問いに対し、一つ一つ解を導き出していくことになるのだけれど、うまく言葉にできないということは、この解を導き出していく過程を省いていることに他ならない。与えられた問いについて考え、一定の解を導き出すという行為は、もちろん労力がかかる。しかし、雑多である情報群一つ一つに向き合うことを省略してしまっては、その全貌についてを認識することなどできるはずがない。「うまく言葉にできない」という言葉はつまるところ、この「考えるという行為」を疎かにすることと言っても差し支えはないだろう。

 

大好きであるならば、素晴らしいと感じるならば、それがなぜかを言葉にしてみればいい。できなければ、それは本当に大好きでもなければ、素晴らしいとも感じていないことが分かる。

 

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