ぼくのらいおん日記

ハートフルでピースフル、それでいて泣けるエントリーがここに。

新興住宅地で起きたことー『絶歌』を読んで

 学生のとき、たまたま取っていた犯罪社会学表象文化論みたいな講義の課題で、日本の殺人事件を調べる機会があった。特に興味をそそられたのが郊外・新興住宅地で起こった事件で、これは僕のジモトの新興住宅地でも不可解な事件が起き、未解決だということもあり、常に頭の片隅に置いていたのでより興味を持った。郊外はその名の通り、都市の周縁部にある「作られた」街であり(ニュータウンを差すものとして定義している)、そこでは区画整備され、汚れたものを漂白し尽くして作られた人工的な空間が広がっているので、「つながり」みたいなものも希薄で、そこに生きる人たちの日常に「生」はどのくらいのリアリティを持って感じられているのかな、という考えがあった。

 

 この郊外で起きた代表的な事件とされているのが、当時少年A、現・元少年Aが犯した犯罪だった。彼が述べていた「透明な存在」みたいなのは、まさに漂白された「生」が起こしてしまったんや……と勝手に考えたりしていた。そんな風に考えているうちに課題提出日が近づいてきたので、関連する本をたくさん読んで(もう内容は全部忘れた)、レポート課題を出し、たぶん可をもらってなんとか単位を頂けた記憶がある。

 

 元々身近な環境に新興住宅地があったせいか、実家に戻るたびにこの話を思い出し、それは卒業して社会人になった今も常に頭のどこかに置いていた。そんな折、先日手記が発売されることになった。不謹慎なこと、なにより遺族の許可もとらず加害者が勝手に出してしまったこと(これは言論での暴力だと思う)などで大バッシングを受けている。本件で、加害者が自らの犯罪のストーリーを出版・販売し利益を得ることを阻止する目的で制定された「サムの息子法」が、形を変えて日本でも採用されるようになるかもしれない。連日報道され、そしてメディアで取りあげられ、賛否(99%は否だが)の声が上がっている。

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 たまたま大学時代をこの街で過ごし、この事件の持つ根の深さを知っているだけに、買ってみたはいいものの本を開く勇気が出なかった。しかし、大学時代に調べていた時に感じた「生」のリアリティの欠如は、時を経てどう変わるのか、という疑問の答えを知るべく、ページをめくってみることにした。2部構成になっていて、後半部にその答えが書いてあった。そこで見たのは漂白された「透明な存在」に色は付かないという事実だけだった。これほど読後の胸糞悪さを感じた本は他に無い。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

1年で365回本屋に足を運ぶマン

 週末フットサルやオシャレなバーでのビリヤード・ダーツ、あるいはウクレレ教室に通ったり…することは無く、ほとんど趣味というものを持ち合わせていない僕に、それでも何か趣味のようなものは無かったかな、と考えた結果、(学生時代から)1日1回は書店に足を運んでいることを趣味と呼んでも良いんじゃないかと考えるようになった。

 

 1日1回ということは年間365回、仕事を始めてからは、営業時間内に業務が終わらないこともあるので、この回数を書店通いの指標にしている。例えば今月はあまり行くことが出来なかったので、本日だけで15店舗を訪れ、その回数を稼いだ(さすがに行き過ぎた)。最初は良書を探す目的で行っていた本屋に、今では365回行ったという経験が欲しいがための手段となっているのは、なんだか本末転倒な気もするが、それでも1年間毎日やっていることなので、趣味と呼んでも良いに違いない。

 

 なぜ毎日行くかといえば、前述したように良書を求めたり、消費欲を満たしたり、もちろん、ずっと買っているマンガや雑誌を手に入れるためだけど、一番の理由は、単純に書店にならぶ人の手垢がほとんど付いていない新刊の匂いが好きだからかもしれない。個人が経営する古書店の年季が入った本の匂いや、古本のチェーン店の手垢の匂い、それら二つが入り交じった図書館の本の匂いも好きだけど、あの新刊特有のそれに比べると、毎日嗅ぐのは憚られちゃう。

 

場末(のアイドル)

 都会に出てみなければ語れないことがあるように、都会から離れてみなければ語れないこともある。「場末」という言葉が内包する「さびれ」た感じは、日々テーマパークのように遊具が揃い、新しいアトラクションが生まれる都会のモダンな空間では決して味わうことができない。だからこそ、研ぎすまされた賑わいからのまなざしは、焦げ茶色の廃れた場所をたまに懐かしみ、いつもは寄り付くこと良しとしない。盛り場からの暴力性を帯びた視線こそが、場末を場末たらしめている理由のひとつでもある。

 

 東京都心を「盛り場」と定義すると、日本のおよそ95%くらいが「場末」になる。この適当にはじき出したパーセンテージは、案外的を射ていると思う。それは単に面積から算出した結果ではなく、日々感覚的に私たちのほとんどが覚えている(と想定される)数値であるからだ。私たちが祝祭空間へ定期的に通うのは、サビを洗い落すことや、賑わいを求めているからに他ならない。

 

「場末」と結びつくワードはなにも「さびれ」だけではない。場末感を色濃く映し出すのは「連帯」であり、鬱々とした結びつきの強いコミュニティ(たち)を見つけ出すことができる。誤解を恐れながら言えば、戦後の闇市的なものをイメージしてもらえば良い。 包摂するコミュニティの力が強いということは、得体の知れないものや気に食わないものを排除する力も強くなる。コミュニティ間の移動が難しいのはそのためで、“引っ越し”にひと際労力がかかるのも頷ける。驚安の殿堂 ドン・キホーテで買い物をしつつ、驚安の殿堂 ドン・キホーテで買い物をする人を嫌悪する。

 

 この「場末」という言葉は汎用性を持つ、と考えている。例えば先日行われたAKB選抜総選挙の儀式を題材にして考えてみたい。ゴールデンタイムにたらたらと長い時間流される少女たちの言葉や涙、そして彼女たちの位置を明らかにしてしまう順位は、多くの人々(主にアイドルファン)の感動を誘い、方やお茶の間には滑稽さを与える。このアイドルたちは日本でナンバーワンのアイドルであり、その界隈やメディアの中心にはいつも彼女たちの話題やカラダが映し出されている。ここ何年かの日本はまさにそういった感じで、彼女たちを神様にまで祀り上げる著述家や、彼女たちこそが日本の次の時代を担うべきシステムの模範になるとまで言い切る人もいる。いったいどのくらいの支持者がいるのかわからなくなるくらいの盛り場で、日昼夜休むこと無く、音楽を発信し続けている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Twitterする暇すらない人はうんこする暇あるのか気になる

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WEBを括弧括りで「ネット」と揶揄する老害宜しく、世の中にはSNSのことを暇なヤツが行う暇つぶしのためのツール、と捉えている人たちがそれはそれは沢山います。ずばり言えばまったくその通りなのですが、SNS民のなかにはセルフブランディングや告知のために使ってるという人たちもいるので、彼らを除く有名人でない「私たち」への揶揄・中傷として定義付けるのが正しいでしょう。そうです、有名人ではない私たちは、暇つぶしのためにSNSを活用しているのであります。

 しかしながら、SNSにはコミュニケーションとして役割がある(むしろそれしか無い)ので、ひいては「コミニュケーション=暇人のやること」と少しばかり論理を飛躍させて考えてみると、悲しいことを言っているんだなあと思います。だってあれですよ、身近な友人はもとより、あったことのない遠くの世界の人ともコミュニケーション取れたり、私たちの雲の上にいる人がSNS上にしか残さない些細な言説たちをえっちらおっちら眺めることができるなんて、素晴らしいじゃないですか。

 

つながりは弱すぎる方が良い 弱すぎる方がつながりとしては良い

ある日、 SNSをしない理由として僕の知人がこんなことを仰っていました。

 

Facebookって学校がバラバラになったり、就職で県外にいってバラバラになったり、あるいは海外にいってバラバラになるときに役立つものでしょ? でも私はずっとジモトにいるし、仲の良い友達もずっとジモトにいるの。そりゃあ、中には引っ越した人もいるんだろうけど、「イマ・ココ」で仲良い友達の方が大切じゃあないの? ずっと一緒にいる友達だから、あえてSNSなんてしなくても、直接喋ればいいわけ。ネットを見てる暇があれば、リアルに遊べばいいわけ。わかる? だからネットは暇人の遊びなのよ。現に私は友達と遊ぶのに精一杯で、やる暇すらないのよ。やる気もないけどね(笑)」

 

またも正論ですね。疑うことなき正論です。では疑わない代わりに、少し斜めから見てみることにしましょう。強すぎるつながりは○○といった結末を引き起こす、というのはすでに色んなところで言われていると思いますので割愛して、個人的には「一緒にいるから特にSNSでつながる必要は無い」と返されてしまうと、この人はリアルな接触によるコミュニケーションの方法しか楽しめないんだな……、と少し可哀想な目で見てしまうのです。

  対面でのコミュニケーションは想定内の情報を共有し、撹拌し、またもと通りに固めることしかできないんじゃないかなと思います。SNS、WEBを排したコミュニケーションは単なる内輪話に過ぎない、と言えば言いすぎですが近いです。例えば、個々人の仕事の話や共通の友人の話、思い出話を行うことはできても、ほかのカテゴリーの話はノイズ的にしか入ってきません。ちきりんの愉快な仕事論も、佐々木俊尚さんのステキな未来批評(こんな言葉は無い)も入ってきませんし、有名じゃあ無くても面白い話を持っているコミュニティ外部の人と、ほとんど交わることができないのです。彼らにフォローされて、自分も彼らをフォローしていく。そうすると、シェアされた情報や、リツイートに載ってきた情報は否応無しに目に飛び込んでくることになる。するとどうでしょう。強い対面のつながりで結び合った彼/彼女たちより多様な人との弱いつながり/かかわりや得体の知れない情報を取り入れることができるのです。

 

この可能性すら自らの手で握りつぶし、そしてそもそもTwitterする暇すらないという人は、うんこしながら日経新聞を読み、読み終わったページでケツをふいているのかな? そんなに時間ないのなら、そもそもうんこすらしてないのかな? あるいは、うんこしながら友達と遊んでるのかな? と心配になります。うんこやおしっこをしたいのに我慢すると、便秘になったり痔になったり、膀胱炎になったりするので、もしもの場合は身近な医療機関に行き、医師の診療を受けてください。特に痔にかんしては、ほっておけば治る、ボラギノールを付ける/注入すると治る、などと一部で言われていますが、基本的には対症療法や一時的に症状が治まっているに過ぎないので、恥ずかしいかもしれませんが、肛門科の門をくぐることをおすすめします。

 

痔 〜予防と対処法〜|症状|切れ痔|いぼ痔|あな痔|

 

『ミルモ様が見てる』ってマンガを読んだことない人は本好きの末端

 りぼん、コロコロ、ボンボン、ガンガン、ジャンプ、ヤングジャンプ、マガジン、ヤングマガジン、モーニング、ヤングキングアワーズ……四半世紀の人生で巡り会ったマンガ雑誌たち。雑誌よりコミックス派という人がいるように、コミックスよりだんぜん雑誌派、ワイドで紙質の粗い雑誌で見てこそ活きる場面があると信じて、発売日にはお金を握りしめて購入。都市部より早めに売られる地方では、どこよりも早く読むことが出来るということに優越感を感じ、上京して発売日にしか買えないのがつらい、そんな人生を歩んでまいりました。数年前に電子書籍があらわれて、一般書やコミックス、アスキーなどの雑誌、そしてとうとうマンガ雑誌まで電子化されたものだから、複雑な気持ちを抱きながら、発売日当日の0:00に配信されるんだから便利だなあと思いつつ買っておった訳です。

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 割と最近になって、電子書籍は一般的になり、電車やスターバックスドトールや牛丼屋やサイゼリヤピザエクスプレスやコスタコーヒーなんかでKindle片手にコーヒーをすすり、牛丼を頬張る人をよく目にするようになりました。これだけ普遍的なものになったんだから、「Web雑誌を作って連載しよう(提案)」と各社のお偉いさんたちが考えるのは当然の帰結。紙を刷るお金が掛からない分、そして取り次ぎ業者を通す必要がない分、楽だから仕方がありません。しかしWeb雑誌だけ、なぜだか読む気にならず「一線級の作家がほとんどいないじゃん」だとか「どうせWebだからって編集もテキトーにやってんだろ」だとか、言い訳を幾重にも積み重ねながら、食わずにマズいと語っておりました。

 

 

 突然ですが、私はおっぱいが好きなので、ついついおっぱいが強調されている女性が移った雑誌や週刊誌や写真集やマンガなんかを買ってしまう癖があります。ジャケ買いならぬ、おっぱい買いです(字面が卑猥ですね)。

matome.naver.jp

 

 そんなおっぱい好きの私が、たまたま書店のマンガコーナーをてくてくと歩いていると、キレイなおっぱいが目に入りました。それこそが、コミック電撃だいおうじというWebサイトで掲載されている『ミルモ様が見てる』というマンガのコミックスだったのです。当時旅行中だったので、旅の恥は掻き捨てと言わんばかりに(おっぱいが目立っていた表紙を恥ずかしく感じたのではなく、Webマンガのコミックスを買うことを恥じながら)購入。するとどうでしょう、というか明らかに面白い。どう見ても面白い。ミルモ様というわけ分からない生き物、面白すぎる。と、めりめりのめりこんで言った訳であります。超絶おすすめなので、ぜひ読者とオフ会して朝が来るまで終わること無く読書したい。『カラダ探し』とかいう『親指探し』みたいなタイトルのマンガもめっちゃ面白いのでこれからは認識を改めて、Web雑誌の沼に足を浸けてみよう、そう決意したのでした。

daiohg.dengeki.com

 

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嗚呼、Negiccoさん…【初夏の祭典】 下北沢サウンドクルージング2015開催! 5/30 15:00〜

晴天に恵まれた5月末の土曜日(というか本日)、下北沢にてサーキット型クルージングパーティーが開催されるそうです。ライブハウスをまわって音楽を楽しむというあれですね。今年で4回目。

soundcruising.jp

たくさんのライブハウスが集まっている下北沢という街の特色を生かした面白いイベントです。特に面白いのはフェスと違い、日中から始まって夜通し行われること(なお、夜通し行われるフェスもある)。15:00からスタートし、23:00におわるDAY TIME、23:00スタートで早朝5:00におわるNIGHT TIME の2部構成で、両方参加しても6,400円(当日券)とお得な内容。もちろんDAY、NIGHTと参加したい時間のチケットを買うこともできます(DAY5,000円、NIGHT4,000円。いずれも当日券 )。通しで買った方が楽しめそうですね、コスパ的にも。チケットを買ったらリストバンドがもらえます。

 

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出演アーティストは豪華、豪華、豪華!こんなにたくさんのアーティストが集まるのはこの時期あまりない気がします。こんな感じでまとめられてます。タイムテーブルもあります。

soundcruising.tumblr.com

matome.naver.jp

 

嗚呼、Negiccoさん、篠崎愛さん、ホフディランさん、バニラビーンズさん、カラスは真っ白さん、水曜日のカンパネラさん、阿佐ヶ谷姉妹さん……などなど本当に豪華です。興奮してきました。

 

最新情報は公式Twitterさんから!@Sound_Cruising

ハッシュタグ(#SSC15)もあるっぽいので行けなかった人にも盛り上がりを伝えてあげましょう(ニッコリ

 

さて、書を捨て、街へ出よう!

 

意識高い系よりやっかいな、「友達自慢」という病

 最近友達自慢ばかりする知り合いがいるんだけど、実にやっかいである。なんせ会ったことも名前を聞いたこともない人が会話の中で唐突に出てくるもんだから、その友人とやらの人となりが分からない。さらにいきなり自慢話(武勇伝・学歴・社歴・成果etc.)だけを聞かされるので、その自慢を踏まえてあなたにどう反応すればいいのか分からない。それならまだ「昨日寝てなくてさっ」といった中学2年生並みの自慢を聞いていた方が、いくらか聞き流しやすいというものだ。

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「すごい友達がいるんですね」とでも言いながら相槌を打つのが正解なのか、「うらやましいですね」と羨望のまなざしで、あなたのことを見つめれば正解なのか。たぶん、前者だろうし後者でもあるだろう。しかしながらそんな話を聞かされて、果たして敬意を持ってあなたに接したり、あなた自体をすごい人間だと思うだろうか?(Tehuくんは凄くウザいけどすごい人間だ)

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そもそも「自慢」という行為自体に興味をもって接してくれる人というのはごく僅かである。ドヤ顔で成し遂げたことを報告されたり、有名人の彼女や彼氏がいたり、文化資本が高いことを誇らしげに語ることに、あなた自尊心を満たすこと以外の意味を見つけることが難しいからだ。むしろ、話を聞いている限りその素晴らしい環境のおそらく中心にいるであろうあなたの、つまらなさを際立たせてしまわないだろうか。あなたが自慢をすればするほど、そんな凄い友人たちに囲まれているのにも関わらず、あなた自信の自慢話がまったく出てこないことに違和感を覚えてしまうことの方が多いはずだ。

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確かに友達がアイドルになったり、すごい賞をとったら自慢したくもなる。芸能人と仕事をしているという話も、うらやましいことには違いない。けれどあなたがその高尚で素晴らしい事実を必要以上に語ることで、聞き手の興味は次第に語り手であるあなたに移っていく。あまりに長い話を聞かされても、知らない人の話なのだからイメージするにも限界があるし、起承転結のない自慢話は往々にして退屈である(自慢話は往々にして起承転結が無い)。自慢話に飽きてきて、聞き手がふとあなたを見た時の表情に、あなたは果たして気付いているだろうか。

 

 

それでも気付かない無自覚なあなたには、こんな言葉を捧げたい。

 

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「そうですか。それで、あなた自身はどんな偉業を成し遂げましたか?」